戻れない過去


満月の夜に1人の赤ん坊が生まれた。赤ん坊は、我愛羅と名づけられた。亡くなる直前に母親がつけた名前だった。我愛羅の側には、いつも彼の身の回りの世話をし、気遣ってくれる叔父、夜叉丸がいた。彼は、亡くなった母親の弟であり、我愛羅にとっては、唯一人、温もりを与えてくれる存在だった。
「ほら、我愛羅さま、あちらに風影さまが立っておられますよ」
「父さま…」
「五影会談に出発する前に里の者たちにお声をかけていらっしゃるのですよ」
 父・風影は、幼い我愛羅にとって敬愛と畏怖の存在だった。無表情を常とし、向けられる眼差しは、冷たく厳しかったが、忍術を教えてくれ、大勢の里の人から風影さまと敬意をもって呼ばれる父の存在は、幼いながらに誇らしかった。
「ねぇ、夜叉丸。あれは、誰なの?」
 我愛羅は、風影の後ろに並ぶ二人の子どもを指さした。
「ああ、あれは、テマリさまとカンクロウさまですよ。我愛羅さまの姉上さまと兄上さまです」
「姉さまと…兄さま」
風影には、三人の子どもがいた。しかし、我愛羅には、彼らと親しく交わった記憶がなかった。実は、生まれたばかりの我愛羅にカンクロウがちょっかいを出し、守鶴が出現してしまったことがあった。よくぞ生きていたという大怪我をおった二人は、以来、我愛羅とは、接触を極力避けるように育てられていた。幼い我愛羅は、そのことを知らなかった。
「夜叉丸、2人は、そのぉ・・ボクの事を知っているのかな…」
「もちろんですよ。きっと我愛羅さまにお会いしたいと思っているはずですよ。特に兄上であるカンクロウさまは…」
「カンクロウ…兄…さま」
 我愛羅は、兄の名前を小さくつぶやくと、ほほをそめた。
「さぁ、お薬を飲む時間ですよ。」
 毎日、夕暮れになると煎じ薬が与えられた。茶褐色の液体は、とてもまずかったが、拒むと夜叉丸が、たちまち困った顔をするのでしかたなく我愛羅は飲んでいる。夜叉丸は、薬を飲み干すと我愛羅を誉めてくれる。それが、嬉しくて、その日も鼻を摘んで煎じ薬を一気に飲み干そうとした。
 その時だった。ドアの向こうから夜叉丸を誰かが呼んでいる。夜叉丸は、我愛羅に煎じ薬の器を持たせると、
「ちゃんと飲んでくださいね」
と、念を押して部屋の外に出て行った。
「……」
 我愛羅は、夜叉丸の背中から、器に視線を移した。
「……」
 きょろきょろと周りを見渡すと、そこにサボテンの鉢があった。器を思い切ってひっくり返すと、液体は、あっという間に鉢の中に吸い込まれていった。程なくして夜叉丸が戻ると、我愛羅は、くまのぬいぐるみを弄んでいた。空になった器を確認すると、夜叉丸は、
「ちゃんと飲めましたね」
といい、いつものように我愛羅の赤い髪をなでた。
「それじゃあ、また明日。おやすみなさい」
「おやすみなさい」
 夜叉丸が、出て行くと外から鍵がかけられた。我愛羅の部屋は、重い扉と丈夫な壁に囲まれ、四方に結界が張られている。煎じ薬は、守鶴を封じ込められた我愛羅が、完全な眠りに落ちる事を避けるため、物心がついた頃から施されていた。しかし、飲み続けているうちに耐性ができてしまうため、時折、我愛羅は深い眠りに陥ち、守鶴が目覚めてしまうことがあった。そのたび、屋敷は大騒ぎとなり、風影の護衛として常駐している上忍たちは、たたき起こされた。そして、皆の安全のために、風影の提案でこの部屋が設けられたのだった。
「姉さまと兄さまに会ってみたい」
 その夜は、先ほど見た自分の姉兄のことが気になり、煎じ薬を飲まなかった。夜叉丸が立ち去った後、我愛羅は、ドアに近づき外の気配をうかがった。廊下は、静まり返っており、人の気配はなかった。もう少し意識を遠くに飛ばすと、今度は、どこか懐かしいチャクラを感じた。さらに意識を集中すると、廊下の様子が、目の前にくっきりと見えてきた。そこには、黒い頭巾をかぶり、背中に大きなくぐつを背負った少年がいた。
『カンクロウ…兄さま』
もっと近くで顔を…そう思った矢先のことだった。
「うわっぁぁぁ!!」
目の前を大きな平手がよぎり、次の瞬間、床に叩き落とされた。
「あっ!」
 我愛羅は、再び意識を集中させた。すると徐々に視界が開け、こちらを指差すカンクロウが見えた。
「砂の目玉が…浮いているじゃん」
 どうやら、気づかれてしまったらしい。
「クソっ。びっくりさせやがる。うわさのチビだな。とっちめてやるじゃん」
 隅どりをした顔が睨んでいた。
『怖いよう』
 我愛羅は、逃げるようにして意識を部屋に戻した。後ろから、兄が追ってくるのが分かった。程なく、視覚が本来の目に戻ると、部屋のドアが、けたたましく叩かれ怒鳴り声が響いた。会いたいと思っていた相手が、血相変えて向こうからやって来たのだ。
『どうしてあんなに怒っているの?』
 わけがわからず、我愛羅は、おびえた。
「ここを開けやがれ!!鍵なんかかけても無駄だぞ。ドアごとぶち壊してやる!!」
 カンクロウは、思い切りドアを蹴飛ばしている様子だった。
 我愛羅は、鍵穴に意識を集中させて砂を流し込んだ。以前、勝手に鍵を開けて、夜叉丸を悲しませたので、再び自分からは、この術を使わないと決めていたのだが…。
『ごめんね。夜叉丸』
 先ほどの煎じ薬に続いて、2つめの約束を破ってしまった。何度も夜叉丸の顔が脳裏に浮かんだが、まもなくドアの向こうから現れたカンクロウによって上書きされた。
「やっとあえたな。チビ」
 記憶にある限り初対面のはずの兄が、憎々しげに我愛羅を見下ろしている。
「…兄…さ」
 全部をいい終えないうちに、カンクロウは、我愛羅の胸倉を掴んだ。
「つ・か・ま・え・た」
 宙ぶらりんにされ、額がぶつかるほど顔を近づけられると脅すようにカンクロウは言った。
「どんなバケモノに成長したかと思えば…相変わらず、こんなにチビじゃん」
「痛い…放して…」
乱暴にぶら下げられたまま、激しく揺さぶられ、我愛羅は、次第に息苦しくなった。
「なぁ、バケモノ見せてくれよ」
「やめて…」
 我愛羅の手足は、むなしく宙をかいた。そして、もがけばもがくほど、体の奥深いところから、少しずつ別の感覚が脈打ちながら湧き上がってくるのが恐ろしかった。おまけに今夜は、満月だ。
「だめ。放して…怖い」
 カンクロウは、弱々しくつぶやく我愛羅の言葉に、軽い快感を覚え、さらに激しく揺さぶった。
「あっ…」
 我愛羅は、必死でばたつきながら、何かをこらえているようだった。カンクロウは、それを自分への嘆願と勘違いしていた。そして、それが、大きな過ちであったことを次の瞬間、悟った。
「うわっああっっ!!」
 突然目の前に砂嵐が起こり、なにか巨大な怪物が、自分を掴み上げた事が分かった。足元の床がなくなり、今度は、自分の足が、宙を蹴っている。そして、必死で目を開けると、まがまがしいものと目が合った。
『な…んだ。こいつは…』
 そこには、右腕の一部が守鶴化した我愛羅の姿があった。黄色く光る星を湛えた瞳が、自分を見ている。
「我愛羅…おまえ」
 背筋にいく筋もの冷たい汗が流れるのが分かった。カンクロウは、掴んでいた我愛羅の胸元から手を離した。すると、カンクロウも床に叩きつけられた。
「つぅ…」
 同時に床に落ちたはずの我愛羅の足元には、砂がクッションのように広がっていた。巨大化した右腕は、さらさらと砂をこぼしている。それは、やがて我愛羅の右腕に戻っていった。
「バケモノじゃん」
カンクロウは、全身を震わせ、這うように部屋の隅に移動した。我愛羅は、泣きながらカンクロウを見ていた。

「まだ、お休みにならなかったのですか」
 いつの間にか、夜叉丸がドアを開けて立っていた。その後ろには、姉のテマリの姿もある。
「やっぱり、ちょっかいを出しにきたのか。こりない奴だな」
 テマリは、へたり込んでいるカンクロウに歩み寄った。
「あれほど我愛羅にかまうなと言われているのに…」
「ちっ…」
 こんなはずじゃなかったぜとカンクロウは、ばつが悪そうに顔をそらした。我愛羅は、そんな彼らの様子を、じっと見ていた。そして、姉・テマリの横顔が、どことなく写真の母に似ていることに気がついた。
「ねえさ…」
 我愛羅は、思い切って声をかけた。しかし、言い終わらないうちにカンクロウがどなった。
「俺らを姉弟なんて、呼ぶな!!オレにはバケモノの弟なんかいない!!」
 我愛羅は、体を硬直させた。そして、重くてとがった石が、体の中を転がっていくような痛みを感じた。
「カンクロウ、やめろ」
 テマリは、カンクロウを制すると、我愛羅に
「すまなかったな」
といって、出て行った。
『皆、同じだ…』
 我愛羅は、彼らの反応にこれまで散々、里の人々たちから投げつけられてきた言葉を重ねた。
 …お前は、バケモノだ…みんな、お前が、嫌いだ…
 懐かしく感じたチャクラは、一瞬の間にどこか遠くに掻き消えてしまった。会いたいと思っていた優しく温かな気持ちは、いったいどこから来て、どこに行ってしまったのだろう。ただ、一言、兄と呼び、姉と呼び、我愛羅と彼らに優しく名前を呼ばれたかった。しかし、夜叉丸以外、誰も我愛羅の望みを叶えてはくれなかった。

「さあ、もう一度、ちゃんとお薬を飲んでくださいね。ドアの鍵を勝手に外してはだめですよ。これは、あなたを守るための鍵でもあるんですから」
 夜叉丸は、そう言って我愛羅の髪を優しくなでた。
…ボクには、夜叉丸がいる…
 その温かい手だけを頼りに、我愛羅は生きていた。たった一つの温もりであり、絆だった。
「さぁ、もう一度、飲んでくださいね。薬の効き目が悪くなっているようですね」
 その薬は、いつもより苦味が強く感じられたが、我愛羅は、我慢して飲み干した。
「ねぇ、夜叉丸」
「はい。我愛羅さま」
「夜叉丸は、どこにも行かないよね」
「ええ。私は、いつでも我愛羅さまのお側にいますよ」
「ありがとう。…夜叉丸だけなんだ。僕には…」
 我愛羅は、夜叉丸の手を握った。徐々に体は、重くなった。どうやら薬が効いてきたらしい。
「ずっとそばにいてね。夜叉丸…」
 夜叉丸の手が我愛羅の髪をすくように優しくなでる。その手の感触に癒されながら我愛羅は、浅い眠りにつくのだった。

「ちぇ、ひでえめにあったじゃん」
「本当に、ばかだな。お前は、昔も今も我愛羅を怒らせて。そんなんでこの先、我愛羅を守っていけるのか?」
 テマリとカンクロウは、昼間、風影である父から、彼らの弟の監視と護衛が、これから先の主な任務になる事を聞かされた。そして、心して修業に励むようにと念を押された。
「俺は、風影の長男じゃん。当然、将来の風影は、俺じゃん。人柱力は、俺の道具だ。なら、俺の好きにしていいはずじゃん」
「んなわけないだろ。いい加減、気づけよ」
 カンクロウの問題行動の原因が、勘違いによるものであることにテマリはあきれていた。
「今度やったら、マジ殺されるぞ。お前」
 テマリは、先ほど見た光景を思い出していた。翡翠のような瞳が、まっすぐにこちらを見つめていた。そのあまりの美しさに思わず吸い込まれそうになり目をそらしてしまった。姉として、大丈夫だよと本当は、その小さな肩を抱きしめてやるべきだったかもしれない。しかし、同時にあまりにもおびえているカンクロウを見てしまい、自分も怖かったのだ。
「あいつに、兄さまと呼ばれたかったなぁ…」
「思いっきり、バケモノの弟なんかいないって叫んでたぞ。お前」
「はぁ〜」
 カンクロウは、大きなため息をついた。小さな手を初めに打ち払ったのは、自分だった。固まった我愛羅の姿を思い浮かべると、次第に後悔の念が沸いてきた。
『…傷つけてしまった』
 我愛羅の中で眠っていた守鶴をたたき起こし、あげくに恐怖から身を守ろうとして、姉兄なら絶対に言ってはならないことを言ってしまった。
…生涯にわたって、我愛羅の監視と護衛を任務とする…
 忍びとして、仲間と生死を共にする場合、もっとも大切なのは信頼関係だ。いったい、この先どうやって、我愛羅とそれを結んでいけばよいのだろう。難題にさらに条件をつけたしてしまった自分の行為をカンクロウは、後悔した。
「俺って最悪じゃん」
 時間の流れは止められない。口をついて出た言葉も、もはや回収する事はできない。考えてみれば、自分たちは、父親から人柱力になることを見逃されたのだ。代わりに選ばれたのは小さな弟だった。実験体としてのその立場が、幼心にも不憫に思えて仕方がなかった。華奢で今にも壊れそうな小さな我愛羅…。その湖のような大きな澄んだ瞳と、赤くて短い髪は、白い陶器のような顔を一層小さく見せる。そして、痛々しい目の周りの隈取が、眠れない日々の象徴であることをカンクロウは、知っていた。
「すんでしまったことを悔やんでもしょうがない」
 テマリは、気落ちしているカンクロウを居間に残して自室に戻っていった。1人になったカンクロウは、隣にカラスがいないことに気がついた。
「ラッキー。我愛羅の部屋に置き忘れたじゃん」
 謝るチャンスが思いがけずに到来した。先ほどの恐怖をすっかり忘却の彼方に追いやると、カンクロウは、やおら立ち上がった。その時、ドアを叩く音が聞こえた。
「はい。お忘れ物ですよ」
 そこには、カラスを抱いた夜叉丸が立っていた。がっかりすると同時に、先ほどの醜態を思い出し、カンクロウは、顔を赤らめた。
「すまなかったな。さっきは…」
「いえ。我愛羅さまも落ち着かれましたし…もう、大丈夫ですから、ご心配なく」
 叔父の言葉は、優しかった。それが一層、我愛羅を傷つけてしまった罪悪感を呼び起させた。
「…夜叉丸は、怖くないのか?」
 カンクロウは、思わず聞いてしまった。身近に仕えるものとして、誰よりも我愛羅のことを知っている叔父。
「我愛羅さまは、本来とてもお優しい方なのですよ。でも、他の人々が、それを受け入れないのです。今の状況は、我愛羅さまのせいではありません。それに、例え守鶴が現れても、私のことは、我愛羅さまが、守ってくださいますから…」
 夜叉丸は、あっさりとそう笑って言った。恐らく、これまで何度も質問された内容なのだろう。
「殺されるかと…俺は、思ったじゃん」
「普通の人でも、敵意には、敵意で反応します。同じですよ」
「まぁ…それは、そうだな」
 夜叉丸が帰ったあと、カンクロウは、窓から別棟にある我愛羅の部屋を見ていた。その上には、満月がぽっかりと浮かんでいる。砂の里の人々は、すでに眠りにつき今頃、記憶の海を漂っている事だろう。
「我愛羅も夢を見るのかな…」
 眠らない我愛羅に対して奇妙な質問だと思いながらも、カンクロウは、我愛羅に思いを馳せる。そして、いつか弟にも安らかに眠れる日がくるといいなと思わずにはいられなかった。


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